| 吉田美奈子 |
|---|
| 『大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一』へ収録された楽曲『指切り』のフルートソロで、プロとしてのキャリアをスタートする。 1973年9月、細野晴臣のプロデュースによる1stアルバム『扉の冬』を発表。RCAレコード|RCA/BMG JAPAN|air在籍時の山下達郎の楽曲提供のバックコーラス (ポピュラー音楽)|コーラスを手掛け、相当数の歌詞も提供している。 『mimi (雑誌)|mimi』(講談社)1977年3月号の「ニューミュージックスター年鑑」での吉田の紹介では「女性なのに(ママ (引用)|原文ママ)ボクのやっているのはニューミュージックなんかじゃなく、ミュージックだよ」と話した。 1985年、サントリーのギフトCM用に『THANKS TO YOU』を制作、「第33回カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル|カンヌ国際広告映画祭」で銀賞を受賞。 大瀧詠一の作品で後に多くの歌手にカバーされた「夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら」の創唱者でシングルは彼女の移籍後にリリースされた。この件については、大瀧も自身がトータルプロデュースしたシリア・ポールのアルバム『夢で逢えたら1986年再発売版のライナーノーツで、元々はアン・ルイス用に制作した曲がお蔵入りとなっていたもので、これを聞いた制作側から提供を求められた際、「吉田のために作った曲ではないし、こうしたポップス・タイプは好まないのではないか」と制作側に意見した経緯を紹介している。一方、吉田は、ギター・マガジン 2024年6月号』の「特集:証言構成 ティン・パン・アレーの真実」でのインタビューで、自身がシングルカットに反対したという風聞を否定している。その中では、自身としてはシングルを出さないでほしい言う要求を一度もしていない一方、山下達郎が「イメージとギャップがある」という意見をスタッフに述べていたことや、アルバム発売当時のシングルカットが見送られたのは当時のレコード会社の判断だった、とも証言している。また、自身は楽曲を嫌っていたわけでなく、自身が嫌だと言ったら、1978年の後発シングルも出ていないはずとも、大瀧とは仲が良かったので、気持ちを理解してくれていたが、わざわざ外には言わないではないか、とも証言している。、 ウィキペディア(Wikipedia) |