☆評価☆ | 名前/タイトル | 歌/曲 | 年代 |
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☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ | ジョー山中 | あしたのジョー2のテーマ〜明日への叫び〜 | 1981年 |
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ | ジョー山中 | 青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜 | 1981年 |
ジョー山中 |
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『証(あかし) ― 永遠のシャウト』より。、ソロ・アルバムの『W's』の中村俊夫のライナーノーツでも父親を「アフリカ系アメリカ人」としている。小学生時代に母を亡くした上、自宅が火災で全焼。結核で2年間入院した後、約16歳まで養護施設を転々として育つ。中卒後、自動車の修理工場に勤務。 * 1962年 - 腕っぷしの強さを聞きつけた金平正紀にスカウトされ上京し、協栄ボクシングジム|金平ジムへ入門。リングネームは正紀による命名で城 アキラ。プロデビューは17歳で、ジムの意向によりライト級からフェザー級に転向するも、無茶な減量が祟り体調を崩して入院し、全日本新人王決定戦|東日本新人王の準決勝を棄権している。通算成績は4勝1敗1KO。 * 1963年 - 混血児をテーマにした映画『自動車泥棒 (映画)|自動車泥棒』で安岡力也らと共演。 * 1966年 - グループ・サウンズ|GSグループ「4・9・1(フォー・ナイン・エース)」に城 アキラの芸名で加入、ボーカルを担当。翌67年シングル『星空を君へ』でデビュー(録音後加入のため、レコーディングは不参加)。68年脱退。 * 1968年 - 内田裕也の誘いに応じ、ロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」の結成にボーカルとして参加。 * 1970年アルバム『ANYWHERE』でデビュー。同年、クニ河内とフラワー・トラベリン・バンドのメンバーである石間秀機|石間秀樹とのコラボ作『切狂言』を「クニ河内とかれのともだち」名義で発表。 * 1971年、フラワー・トラベリン・バンドの2ndアルバム『SATORI』をアメリカ合衆国|アメリカ・カナダで同時発売、エマーソン・レイク・アンド・パーマー|EL&Pとツアーするなど国際的に活躍。 * 1973年 - 4月の京都公演を最後にバンドは解散。以後はソロに転じ、翌年アルバム『Joe』をリリース。 * 1975年 - 8月、内田裕也が主催した「第1回ワールド・ロック・フェスティバル」に、フェリックス・パパラルディ(元マウンテン (バンド)|マウンテン)のグループの一員として出演、3月25日、自らのホームページで治療中であることを公表。親交のあった千葉真一から「抗ガン剤はやめたほうがいい」と免疫療法を勧められたが、化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法を始めていた。千葉は山中の曲では「ララバイ・オブ・ユー」が一番好きだと語っている。 * 2010年 - 9月6日 自宅全焼。 * 2011年 ** 3月に発生した東日本大震災の募金活動に参加。。自身はキリスト教徒|クリスチャンではなかったが、クリスチャンである妻の希望により葬儀・告別式はキリスト教式(11日・キリスト品川教会)で営まれた。 ウィキペディア(Wikipedia) |